2年前、長篠城跡を見に行った際に乗った、とある電車があった。
飯田線。愛知県豊橋と長野県辰野をむすぶ、いかにも田舎の電車といった風情の路線だ。
車内はもちろん2人席が向かい合わせ。大雨などの天候不順で遅れたり止まったりすることが結構ある。
その電車に揺られていたとき、急に目に止まったものがあった。

こんなところに墓があるのか…。今川義元、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて亡くなった不運な戦国大名だ。
駿州から三河(現在の静岡県~愛知県)を治める大大名であった今川義元だが、隣国尾張の小さな主であった信長を簡単に攻め滅ぼせるとなめてかかったのが運の尽きだった。
兵たちを桶狭間付近で昼休憩させ、自身も酒を呑み、歌えや踊れやの騒ぎをしていたところへ、急な雨が襲ってきた。
「雨だ!」と兵たちが散り散りになって林の中に入り雨宿りをしていた、まさにその隙を信長は突いた。まさかこんな時に奇襲されるとは思ってもみなかった義元ふくめ家臣たちは、ひとたまりもなかった。
緒田家家臣・毛利新助によって、今川義元は首を落とされた。享年42歳。現代で言えば、厄年のまっただ中であったわけだ…。
今回、ちょっと名古屋に用事があり、2年前に飯田線の車内からたまたま見た「今川義元の墓」を実際に訪れることにした。
名古屋から電車で1時間余。牛久保駅で飯田線を下りると、まず「山本勘助のふるさと」というフレーズが目にとまる。

このあたりは、武田家の軍師・山本勘助が若い頃を過ごした故郷としても有名らしい。山本勘助の墓が駅から徒歩15分くらいにあるので、あとで行ってみようか。
駅を出て右方向に住宅地の中をすすんでいく。けっこう道が細く、途中で停車していたごみの回収トラックの業者さんに「どうもすみません」と頭を下げられた。
5分ほどで義元の墓がある「大聖寺」に着いた。とにかく雨がひどい。桶狭間の戦いのあの瞬間も、こんな強い雨が降ったのだろうか。
寺の入口から泥濘んだ道を少しすすむと、小さな門扉に囲われたお墓が見出せた。
あの奥にあるのが今川義元の墓なのか…。敗れた武将とはいえ、駿府の英雄。立派な墓だ。


近くに行って眺めると、悲惨な最期をむかえた武将の墓というイメージが全くなかった。陰気な感じがなく、花が供えられた跡もあった。

昼間ではなく夜おそくに来たら、義元の霊が出そうでたまらなく怖いが…おそらく夜は門が閉ざされていて、心霊好きな若者などが入れないようにされているのだろう。
敵方に殺されて首を奪われてしまったわけだから、この墓には何が埋まってるの?という単純な疑問が湧く。
実はこの地には、桶狭間の戦場から家来たちが運んできた今川義元の胴体だけが埋められたそうだ。敗れた家来たちが義元の胴体だけを駿府まで持ち帰ろうとしたが、やはり腐敗が激しく、途中のこの大聖寺に埋めることにした。
そのときの家来は、胴体を奪いに来る敵方(織田勢)を警戒し、自分たちにだけ分かる目印をつけようと、胴体を埋めた上に手水鉢を置いた。
手水鉢、お寺の入口でよく見る、手を洗い清めるためのこれだ。


お寺の中に無造作に手水鉢が置かれていても、まさかその下に敵方の大将の胴体が埋められているとは思わないだろう…という絶妙なアイデアである(笑)
(いっぽう、織田方に奪われた首のほうは、今川家家臣・岡部元信が交渉の末にとりもどし、駿府まで持ち帰ろうとしたが、これもやはり腐敗がはげしく、途中の東向寺に埋葬された。いまも愛知県西尾市の東向寺に”義元の首塚”という名で残されている)
胴体が埋められた上の手水鉢を目印として、義元の息子・氏真(うじざね)がこの地を訪れ、正式な墓に整備しなおした。まさにそれが、このお墓であるわけだが…

よく見ると「手水鉢」を下に置いたまま、その上に墓が建てられているじゃないか…。
文化人の素養があった今川氏真は、手水鉢をあえてそのままに墓石を造ることに興趣をおぼえたのか…
それとも、父の遺体を戦場から必死の思いで持ち帰り、それを埋めた上に手水鉢を置いた家臣たちの「配慮」に、氏真なりの敬意をしめしたかったのか…謎である。
桶狭間の戦いで信長に敗れた後、息・今川氏真が今川家の跡を継いだが、ふだんは歌舞音曲に興じているような、とてもじゃないが戦国大名には向かない人物であったため、ほどなくして今川家は滅亡した。
今川義元の墓の隣には、一色刑部時家の墓もある。この周辺にあった一色城(のちの牛久保城)を築いた武将だが、文明9年(1477年)、家臣の波多野全慶によって殺害された。

非業な最期をとげた人物でも、死人となり墓に埋まってしまえば、幸福な人生をおくった者の墓と何ら変わりがない。「生と死」とは、この世に生きている我々が考えるよりも単純なものなのかもしれないと感じた。
墓を見終え、門を出ようとしたとき、墓の下の今川義元から「もう見たいものは見終えたか。何か撮り残したものはないか」と呼びかけられた気がして、念のためもう一枚、門の外から墓を撮影した。

寺を出るころには、さっきまでの大雨が少し小降りになっていた。これも義元による「はからい」なのか…(笑)
