文学

「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫は、もとは農場経営者だった?

伊藤左千夫

先日、「野菊の墓」をはじめて読んだ。

十代の男女の、純粋な恋愛を描いた小説だった。

前半は、初恋の心情が実直な文体で書かれていて、とても好感のもてる小説だった。ただ後半、民子が亡くなってから、政夫の母や民子の両親が「あの子には可哀想なことをした…」と急に態度が変わったところが、ちょっと違和感だった。

私が図書館で借りた「野菊の墓」は、たまたま児童向けの書籍だったため、終わりの方に「作者・伊藤左千夫の経歴」が分かりやすく解説されていた。

37歳まで酪農経営者で、牛の乳を搾って生活していたが、37歳にして急に、短歌に興味をもち、作歌に打ち込みはじめた。

牛飼が歌よむ時に世のなかの 新しき歌大いに起こる

伊藤左千夫が詠んだ歌で、「私のような牛飼いが歌を詠む時代にこそ、新しい歌が生まれるのだ」という、気鋭の歌だ。

歌だけでなく、小説執筆もはじめ、42歳の時に「野菊の墓」を発表。人生の後半で集中的に、すぐれた小説を書き上げた。

しかし、49歳のときに脳溢血のため急逝した。波乱の人生だった。

とにかく、変わった人だ…。

変わった人生遍歴をもった作家は、とても興味が湧く。

37歳まで酪農経営者であったのに、俄然、歌人・作家としての道を歩むこととなった伊藤左千夫とはどんな人物だったのか?

今日はそれを、書いてみようと思う。

青年の頃は、政治家志望だった?

伊藤左千夫は、学問に理解のある父と母の、わりと裕福な家庭に生まれた。

小さい頃は、とにかく活発で元気な子であったらしい。

それは、壮年期の写真から分かる、左千夫の精力的な体格からも、簡単に想像ができる。

青年の伊藤左千夫は、政治家になるのが夢だった。

条約に関する「意見陳述書」を書いて、元老院に送りつけるなど、行動力のある熱き政治家志望だった。

だが、そんな左千夫に「壁」が立ちふさがった。

政治に携わる第一歩として、彼は明治法律学校(現在の明治大学)に入学したが、在学中に目を患ってしまった。

病名は進行性近視、眼底充血だった。

医者に「この目では学問など、とても無理」と忠告され、左千夫はやむなく退学。

千葉県の故郷にかえり、彼は農業をすることになった。

「眼を病めば盲人になる人もいる。近視くらいなら結構じゃ。百姓の子が百姓するに不思議はない。大望を抱いていても運が助けねば成就せぬもの。よしよしもう思い返して百姓するさ」

と当時の左千夫は周囲に語っていたらしいが、若き左千夫を襲った挫折感は、どれほど大きかったろう。

政治家への夢破れ、農業従事者となった彼は、決して自分の暮らしに満ち足りることはできなかった。

一人で上京、農場をはじめる

左千夫の生家(千葉県山武市)

実家で農業をする生活に「現実」を見てしまった左千夫であった。

彼はふたたび、東京に行くことを決意。

家族の誰にも告げず、一人きりで実家を飛び出した、家出同然の出奔だった。

もちろん当時としては、そんな「家出」は倫理的にも許されるものではない。

現金1円、羽織1枚、「日本政記」など書物数点だけを携えただけの、覚悟の上での旅立ちであった。

ときに21歳。この大胆な行動力が、左千夫の大きな魅力であろう。

上京してから彼は、東京や横浜の牛乳搾取場に雇われて働いた。牛乳配達の車につかまりながら眠っていた、というほどの忙しさであったという。

4年後に独立し、自分で農場をはじめた。

左千夫の農場は、現在の総武線「錦糸町」駅付近にあったそうだ。そのため、現在の錦糸町駅前には、「伊藤左千夫牧舎跡」と歌碑が建てられている。

「野菊の墓」を意識してか、看板の真下に5、6本、白菊が可憐に咲きほこっていたのが、やけに印象に残った。

牧場経営をはじめてから、左千夫は1日18時間も働く、という勤勉ぶりであった。

翌年、”とく”と結婚。とくとの間には、13人もの子供に恵まれたが、早世する子も多く、7人の女の子ばかりの家庭だった。

三女、四女とともに

左千夫の、こんな歌がある。

うからやから皆にがしやりて独り居る 水づく庵に鳴くきりぎりす

水害に遭って、家から家族をみんな逃がしたものの、自分は一人、水の上がった家に残っている。そんな時、きりぎりすの鳴く声が聞こえた、という歌。

妻や子供たちを無事に逃がしたあと、家長としてどっしりと腰をおろし、きりぎりすの声に耳をすませている左千夫の大きい姿が、目に浮かぶようである。

太宰治との関係

左千夫の生涯の話からは少し脱線するが、

池水は濁りににごり藤浪の 影もうつらず雨ふりしきる

という左千夫の歌がある。

亀戸の藤を見物しに行ったが、折悪しく強雨で池の水が濁りに濁って、池に藤の花がうつるのを妨げていた。

池にうつる美しい藤を見たかったのに…という歌だが、これを太宰治が入水自殺する直前に色紙に書いたということで話題になった。昭和23年の出来事。

左千夫が亡くなったとき太宰は僅か5歳だから、2人の間に親交は無かったはずなのに何故…?という疑問が湧く。

しかし、太宰治が生前「左千夫歌集」を好んで読んでいた…という太宰の友人による言い伝えがあって、その疑問は氷解する。

でも、太宰が何故、玉川上水に入水する直前に、この歌を色紙に書いて友人に送るつもりになったのか、その真意は謎のままである。

濁る池水を自身の混濁した頭の中にたとえた、とか、「人生の真理を見つけたくても見つけられない」状態を見えない藤に重ねたとか、さまざまな憶測が太宰ファンの間ではなされている。

まさか、左千夫自身も死後40年ちかく経って、こんなかたちで自身の歌が話題にのぼろうとは、思ってもみなかっただろう…。

1 2 3